マン・レイ
Man Ray
マン・レイはアメリカとフランスで活動した美術家。1890年フィラデルフィア生まれ、本名エヌマエル・ラディンスキー。ボーイズ・ハイスクールでデッサンと機械製図を学び、画家を志す。1909年、ニューヨーク大学建築科の入学を辞退し、地図や広告のデザインで生計を立てながら独学で絵画作品を制作。オーギュスト・ロダン、ポール・セザンヌらを紹介した291画廊に通い、オーナーのアルフレッド・スティーグリッツの近代美術と写真の講演に聴き入る。13年に開催された大規模展覧会「アーモリー・ショー」でマルセル・デュシャン、フランシス・ピカビアらのアメリカの前衛美術を目にする。15年、ダニエル画廊で初個展を開催し、油彩画とデッサンを展示。この頃、デュシャンと知り合い、ピカビアらとダダ運動を展開する。筆を使わない絵画、既製品を用いたオブジェやアッサンブラージュなどを手がけ、写真でデュシャン作品にも協力。ローズ・セラヴィ(女装したデュシャン)が表紙を飾る『ニューヨーク・ダダ』を仲間と刊行し、肖像写真の撮影方法を習得する。
21年にパリへ移住。シュルレアリスム運動に加わり、写真を中心に、絵画やオブジェ、グラフィック、実験映画などで多才を発揮する。とりわけ写真においては、カメラを使わず、印画紙の上に物を置いて感光させるレイヨグラフや、過度な露光で反転現象を起こすソラリゼーションといった手法を発明し、既成概念にとらわれない新しい表現を切り拓いた。また、パブロ・ピカソやサルバドール・ダリなど芸術家や著名人のポートレイトを数多く撮影。雑誌『VOGUE』や『Harper's BAZAAR』の紙面を飾るなど商業写真家としても成功する。34年に代表的な写真作品を収録した『マン・レイ 写真集 1920-1934年 パリ』を出版。第2次世界大戦が勃発するとアメリカに一時避難し、51年にパリに帰還。晩年は絵画制作に注力する。76年没。代表作に、レディ・メイド作品《破壊されるべきオブジェ》(1923)、写真《アングルのヴァイオリン》(1924)、絵画《天文台の時間:恋人たち》(1932〜34)など。